聖徒の覚悟 マルコ10章35-45 2023.1.15
本文はエルサレムへ上る道ぞいで3回目、受難予報するイエス様の話です。
弟子ヤコブとヨハネはイエス様の教えを聞いても主の働きの役割を理解できずに世の権力や欲望に惑わされている時、イエス様は自分が世に来た目的を言いました。でも、弟子たちはその目的を理解できず、誰が先になるかの欲望で争っています。
信仰の年輪と信仰の成長は正比例するものじゃありません。年輪を持つと自然に信仰が成長すると期待しますが反対現像が行う時があります。
信仰の年輪を持つと信仰が習慣的生活になるからです。良い信仰を持っていたのに信仰が退歩する場合もあります。だから、年輪と共に信仰を成長させるためには、努力が必要です。
主に従う為には、どんな行動をするか? どんな覚悟をしなければ出来ないんでしょうか?
1.苦難を受ける覚悟が出来ているのか。(38節)
38. しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
杯⇒ ポテリオン⇒ 容器
バプテスマ⇒ パッティゾマ⇒ 激極な災難
杯とバプテスマはイエス様の受難のことを表わす言葉ですが弟子たちは意味も分からず主の受難に対して自分たちも受けると参加すると言うことです。主はもう一度聞きますが個人の栄光と欲望で主の教えを分からず受けると答えます。
そうですよ! 私たちは目の前に見えることばかりで現実の事を失う時がよくあります。
キリスト人の覚悟とは、主の為、迫害も喜んで受けることを求めるまでに犠牲を要求します。
主の苦難を受けることによってキリストの栄光に参加するからです。
苦難を受けたくない者は艱難が起こるとすぐ、倒れる者です。
御言葉がないので何も霊的な力がないからです。
2.他人を尊重して仕える覚悟がいるのか?(43節)
43. しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
仕える⇒ ティアコノス⇒ 使いに行く
弟子たちは主の御国へ入る者ですがまだ、考え方が変わってなかったことです。
初代教会では、仕える者を執事と呼ぶようになったことも同じ理由です。
聖徒はイエス様が教えたように、自分の場所を守ること、仕える者に主なるイエス様に従う者になりましょう。
3.死ぬ覚悟がいるのか?(45)
45. 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人たちのための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
贖いの代価⇒ リュィトロン⇒ 義務と束縛から解放
イエス様の贖いにより、罪人の我らが表さないと出来ない、義務と束縛から解放された自由が与えられたことです。
そして、弟子たちも従って贖いの代価として、命を捧げることを要求しています。
イエス様は命を犠牲にしようとするのに弟子たちは誰が先になるかたげ気にしているのは、我らの様子と一緒です。
主に従うとは自分を服順して考えや行いを主に合わせる努力が必要です。
結論:誰が主に従うのか?
他姓へ染められた習慣や形式を捨てましょう。
苦難を受ける時も世が終わるまで、主に従いましょう。
主の御国へ入る者として、主に喜びを返す生活で毎日、祝福を受ける聖徒になりましょう。