マラの水を飲む者 出エジプト 15章22-27 2023.1.29
葦の海を渡る奇跡を体験した後、ムーセとイスラエルの民は主なる神様を賛美しました。
葦の海を渡れば全ての問題が解決できると思いましたが期待とは違い新しい問題で困るようになりました。
22節、モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。
主の僕、モーセも三日間探しましたが見つけられなかったことです。
こんな時に主を信じる者はすぐにこれは主の働きであると分かる者には祝福が与えられます。
主の働きです。なぜ、主は困らせるのか?
25節、モーセは主に叫んだ。すると、主は、彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。
主なる神様はイスラエル民たちを信仰の勇者として、立てるように訓練するからです。
行ったことに対して3つ理由を考えなければならない。
自分の間違い、ミスはないか? 悔い改め
主なる神様の教えじゃないか? 従順する
我らの敵、サタンの試みではないか? 分別の必要性
1.問題が行うとつぶやく時がある。
15章24節、民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか」と言った。
葦の海を渡った後は主なる神様を賛美したのに今はつぶやく者たちになったのはまだ、主なる神様を信じて従う信頼関係が出来てない乳飲み子の状態にあることです。
主なる神様を信じますと言いながら、主に全てを捧げることより、利益だけ求める者、自己中心である者、そんな心ではイエス様の十字架を見ることも出来ないです。
2.悔い改める者に答える方。
15章25節、モーセは主に叫んだ。すると、主は、彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。
モーセは主にすぐ、叫んだ。主なる神様を信じる者には、主に叫ぶ者であると教えています。
行った問題に対して、つぶやくか、叫んで祈るか?
エレミヤ33章3節、わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。
祈りは主なる神様の御言葉を掴むこと。祈りは主なる神様の御言葉を信頼すること。
祈りは主なる神様を主として、正しく拝むこと。
マルコ9章29節、すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」
3.主なる神様は我らの愛する方。
ヨハネ14章21節、わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」
主なる神様は我らの為、イエス様をこの世に送って下さいました。だから、主の愛を持って生きる聖徒にならなければ出来ません。
マタイ22章36-40節、「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
マラの水が飲めるようになったことは一本の木が水に入ったからではなく、主が命じて変わるようにして下さったから飲むことが出来たことです。
主を愛し戒めを守る者なら主からの恵みと祝福が与えられます。
結論:御言葉に従う聖徒。
伝道書7章14節、順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。
新共同訳14節、順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ/人が未来について無知であるようにと/神はこの両者を併せ造られた、と。
新改訳14節、順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、かみのなさること。後のことを人にわからせないためである。
分別力を持つ為、考えよう。
感謝の祈りをしよう。
27節、こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。
エリムは荒野でイスラエルの民たちが生きることが出来るオアシスです。
イスラエル民が楽に泊まる良い場所へ着くことになったのです。感謝を捧げると主は我らの為、答えて下さいます。
私たちの旅がまだ、終わってないのは、主の導きが与えられる良いチャンスです。
主に呼ばれるところまで、命令に従順して従うことが出来るようにお祈りして祝福します。